荒野一夫さん「私のアフガン体験とその後」


 7日は2本立てでトークを開催しました。お昼に上記の木ノ下裕一さんの落語の話。夜は荒野一夫さんによる「私のアフガン体験とその後」と題したお話がありました。話者によってテーマも話し振りも会場の雰囲気も大きく変わるのが、今回のトークイベントの大きな特徴だといえるでしょう。ですので、一度参加された方もどうぞ2度、3度と足をお運び下さい!
 さて、本日の荒野さんのお話は、大変に興味深いものでした。荒野さんはペシャワール会の一員としてアフガニスタンへ渡られ、およそ9ヶ月間、ペシャワール会の炊事を担当されたそうです。僕自身、アフガニスタンについての情報は全てテレビや新聞を通じてしか知りませんでしたが、やはり現地に実際に行かれた方のお話は「重み」が違いました。
 例えばバザールで野菜を買うにしても、文化や言語の違う外国においては大変なことです。荒野さんのお話には、「外国生活においては日常的な行為が困難なものとなる」という具体的なエピソードに溢れていました。それはただの情報であることを超え、生活者の実感とも言うべきものだったと思います。
 ところで、今回の荒野さんのお話を聞いている途中ぼんやりと考えたことがあります。それは、ざっくりといってしまえば、「歴史とは何か」ということです。
 トークの途中、会場から「日本の技術がインフラを整備した例としては台湾にもある」という声があがりました。その発言にペシャワール会の活動への批判的意図が込められていたのか、僕には分かりませんでしたが、しかし、その発言は、僕を反省させることとなりました。というのも、僕もまた、その発言者と同じように、ある国の歴史を他国の歴史と容易に比較することをしてしまうからです。
 果たしてそのような比較は可能なのでしょうか。
 荒野さんのお話を聞いていて感じたのは、その国や土地、国民にはそれぞれ固有性を持っているということです。仮にひとつの国の国民にしても、その中にはさまざな人がいます。先に「生活者」という言葉を使いましたが、国民ひとりひとりがそれぞれに生活を営んでいて、それらが集合して国民や国家が成立しています。ですので、仮にふたつの国の歴史を比較し、両者の歴史が表面的に似ていたとしても、その内実は決して同一ではありえません。
 付言すれば、僕は、恥かしながらこれまで、歴史を抽象的なものとして捉えてきました。たとえばアメリカの歴史を考える場合、政治家の名前や事件の名前を覚えたとしても、その政治家の背後に国民がいたことを、事件のまわりに国民がいたことを想定していなかったのです。
 僕の抱いていたそうした「抽象的な歴史」とは違い、荒野さんのお話は「具体的な歴史」と言うべきものでした。荒野さんのお話には、さまざまな生活者が登場し、国民のそれぞれが固有の人生を背負っているのだという事実を明らかにしてくれました。そして、今のアフガニスタンがそうであるように、これまでのアフガニスタンもまた、さまざまな生活者たちによって形作られてきたという事実をあざやかに実感させてくれました【京都芸術センター安河内】

 *3月8日(月)は京都芸術センター事務局長石田洋也が「参観日に出たトマト」についてお話します!