近藤佑子「ラジオの話」

 

 今日のトークは、一連のトーク担当者の中で最年少の、近藤佑子さんが担当してくれました!トークテーマは「ラジオの話」。現在京都大学の4回生の近藤さんには卒業間近の忙しい時期に時間を作ってお話してくれました。ありがとうございました!

 ラジオという言葉を聞くと、僕はどうしても『ラジオデイズ』を思い出します。ウディ・アレンが1987年に撮影した映画です。第二次世界大戦中のアメリカ・ニューヨークに住むとある家庭の物語が、ウディ流の淡々とした語り口によって紡がれるノスタルジックな映画です。
 その映画中、ラジオはいま僕たちが触れているそれとはまったく異なった存在感をもつものとして描かれています。花形メディアであり人々の生活と深くかかわっているもの。1940年代、古き良きアメリカにおいて、ラジオはそんな感じだったようです。
 
 他方で、いまの僕たちの生活に目を向ければ、花形メディアであって生活と深くかかわっているメディアとして、インターネットが挙げられるでしょう。

 これらふたつのメディア―ラジオとインターネット―とを比較すると、どうにもインターネットにはロマンチシズムが足りません。自分の好きな情報を自由に見ることが出来るのはとっても便利なのですが、どうもその便利さ(ないしは自由さ)がロマンチシズムを損なっているような気がします。
 一方、ラジオはロマンチシズムに満ちています。しゃべっている人の声は分かるけれどどんな顔をしているのか分からない。次にどういう曲が流れるのか分からない。リクエストの葉書(メールではなく、葉書が良いです)を出してもかけてくれるのか分からない。ラジオでは、分からないことだらけです。そうした分からなさがラジオのロマンチシズムを形作っているように思えます。

 僕がここで書いているロマンチシズムとは、「甘美な空想」といった程度の意味です。あるいは「目に見えないものへの憧れ」と言い換えてもいいです。いずれにせよ、ラジオは、すべてがあけすけになっているインターネットに比べて、そうした心的な働きを促すメディアであるように思えます。

 さて、近藤さんのお話からずいぶんと離れてしまいましたが、近藤さんのラジオについてのお話もまたロマンチックなものでした。ラジオを傍らにおいて受験勉強をした話。大学受験で京都のホテルに泊まっていた時に携帯電話でラジオを流していた話などなど・・・。

 ところで、これまで書いたことと全く関係のない話を書きますが、トークの最中に参加者全員がため息をついた近藤さんの発言がありました。それは「2000年の時は、中学生だった」というものです。なんだかすごいです。2000年と言えばついこの間じゃないですか!びっくりしました。。
 
 それともうひとつ。下水の話。これもびっくりな話です。興味のある方は、下水がどのように集められているのか、調べてみてください!