ボランティア・スタッフと一緒に考えたこと

いよいよ明日から展覧会が始まります。これまで僕(=京都芸術センター安河内)は、およそ半年間ボランティアさんたちや小山田さん、伊達さんと一緒に話し合いを重ねてきました。これまでにぼんやりと考えたことを下記の通りまとめてみました。少々長いですけれど、宜しければお読み下さい。


本展「未来への素振り」は、京都芸術センター開設10周年記念事業として開催されるもので、その企画運営は京都芸術センターの活動を支えてきたボランティア・スタッフが中心になって組織するてんとうむしプロジェクトによって行われている。プロジェクト名の「てんとうむし」は、「てんten」「とう10」「むし(6+4)」と、10周年に関連付けて名づけられている。
僕たちは、2009年6月に最初のミーティングを行って以降、10周年記念としてどのような展覧会が相応しいのか、出品作家に誰を迎えるべきなのか、どのようなかたちでアーティストと協働していくのかを話し合ってきた。そして出品作家に小山田徹と伊達伸明を迎えることが決まった以降は、両者を交えて話し合いを重ねてきた。
もっともこれまで話し合ってきたことは、いわゆるアートに関わることばかりではなかった。むしろ大半は、一見したところアートとは関わりのないようなことだった。どこで生まれ育ったか、若い時どのような仕事にあこがれていたか、あるいは、最近出会った楽しい人や出来事など、ふつう展覧会を準備するときには話し合われることがないようなことを、僕たちは互いに語り合ってきた。そんな話し合いは、ひょっとするとただの与太話を繰り返していただけに思われるかもしれない。
しかし本展を作り上げるためには、そんな話し合いが必要だった。そして、展覧会ばかりではなく、僕たちにとってのアートを考えるためにも、きっと大切なことだった。
本展はふたつのセクションから成る。伊達伸明がコーディネートをつとめるギャラリー北には、僕たちの記憶と関わる空間が作られている。暗闇として設えられたギャラリー空間の中を、鑑賞者は小さなブラックライトを片手に探検する。壁面には蓄光シートが設置され、ブラックライトのほのかな光の痕跡を残す。そして、鑑賞者はふいに気づくことになるだろう。壁には落書きのような文字が埋め込まれていることに。
ここに埋め込まれている「落書き」は、てんとうむしプロジェクトの参加者から集めた思い出である。文章という形態を取ったものもあれば、呟きめいたものもある。いずれにせよそれらは全て、誰かの人生や少なくとも人生のひとつの季節と分かちがたく結びついたものである。
伊達伸明がボランティア・スタッフと協働で準備したのは、こうした記憶と出会う空間である。そこで出会うのは誰かの私的な記憶であることに違いないのだが、しかし、おそらくは私的であるがゆえに、他の誰かにも共有・共感される。他の誰かの記憶が僕たち個々人の記憶の中にある出来事と共鳴する。そのようにして、僕たちの記憶は掘り起こされる。
他方、小山田徹がコーディネートをつとめるギャラリー南には、ささやかな小屋が建てられ、その内部や周囲には見慣れた日用品が展示される。そこに展示されている物は、一見したところ何の変哲もない物ばかりで、ギャラリー空間には相応しくないと思われるかもしれない。
しかし、ギャラリー北の「落書き」がそうであったように、ここに展示されているのは、その物の持ち主の人生と深く結びついたものである。青春時代を象徴する物もあれば、亡き夫の愛した物もある。そこには、人の生を支えてきた、小さな物語が付帯している。展示されている物からその物語の全貌をうかがい知ることが出来ないにしても、そこからは私的な物語の気配や人の生の痕跡が感じ取れるだろう。
またギャラリー南では、会期中連日、ギャラリートークを開催する。トーカーをつとめるのは主にてんとうむしプロジェクトに参加しているボランティア・スタッフで、会場内に展示されている物を糸口に、出品作家の二人と一緒にトークをする。どのような人生を歩んできたのか、今何が好きなのか、これから先どういう風に生きて行きたいのか。ここでもまた、小さな物語が紡がれ、その物語はその場にいる聴衆と共有されていく。

こうしたふたつのセクションから成る本展に対して、「それはアートではない」という批判が向けられるかもしれない。その批判はある意味では正しい。ギャラリーや美術館に展示される美術作品こそがアートだと言う立場に立つのなら、すなわちアーティストの卓越した能力によって作られた物こそがアートだと言うのであれば、本展において展示されるものは全てアートではない。
しかし、そもそもアートとは何だろうか。
先に記した「アートとは卓越性を示すものだ」という主張が拠って立つのは、作品そのものに価値が内在しているという立場であるだろう。そこではアーティストの類稀なる才能によって作品が作られ、鑑賞者がその作品を鑑賞し、アーティストの才能を受け取る、という図式が成り立つ。
しかし、たとえどんなに名作とされる美術作品であっても、その価値は地域的・時代的・文化的な制約に服している。いや、美術作品だけではない。そもそも価値とは、物とそれに接する人々の関係のうちに発生するものなのではないだろうか。そうである以上、価値観の多様化した現在において重要なのは、優れた作品を作り出し鑑賞者に向けて一方的に提示することではなく、むしろ、物と人とを充実したかたちで結びつける関係性を作り出すことであろう。
本展が目指すのは、まさにそうした充実した関係性を作り出すことである。ボランティア・スタッフにとってのかけがえのないものを提示し、語る。そうすることで、ふつうの物/ふつうの人だと思い見過ごしていたものが、ほんの少し厚みを持って見える。物や人へと向けるまなざしに変化が生じる。ここで起きているのは、物や人それ自体と僕たちの関係性の変化に他ならない。
だから僕たちには、一見すると与太話に思えるような話し合いが必要だった。プロジェクトに参加している個々人が語り合うことで、その人へと向けるまなざしが変わる。てんとうむしプロジェクトでは、これまで一貫してプロジェクトに参加している人々同士の新たな関係性を作り出す「素振り」を繰り返してきたのだ。
こうした「素振り」は、展覧会会期中、鑑賞者に対して行われることとなる。来るべき未来への準備運動として、これまでの過去・現在を振り返り、語ることによって、人々の実感にしっかりと結びつき、個々人の生を支えるかけがえのない何かを共有しようとする。僕たちは、そうした「素振り」を通して、未来を想像/創造するのだ。(京都芸術センター安河内宏法)